浜松町界隈

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浜松町界隈 古きを温め新しきを知る

屋形船はしや発祥の地 浜松町2丁目 (旧地名:芝浜松町・湊町・芝新網町のおはなし)
平成16年現在、「中途半端なオフィス街」として変貌をしております「今の浜松町(敢えてそう呼ばせて頂きます)」にも古くからこの地に居を構え営み…当店もお陰様をもちまして何とか生き永らえております。

さてご来店のお客様の中にも「今の浜松町」しかご存知ない方が多くなりましたので少しだけ歴史を紐解いてみたいと思います。

「今の浜松町」は中途半端に開発が進み、住んでいる者には住みにくく、道路も未整備で働いていらっしゃる方々にとっても働きにくい環境なのではないかと思います。

これから先のお話しは昭和59年に芝大神宮参集殿にて開催された故橘右近師匠を始め、座談会主催の祥雅堂塾の皆様、芝浜四町会の皆様方の座談会の様子を小冊子にまとめたものの中から一部要約・抜粋しながらご案内いたします。

「芝新網町」の変遷
昔は芝浦〜現在の芝浦を更に広域に捉えた意〜と唱えた海辺で徳川家康入国の頃は漁夫が多く日比(ひび=漁をするための竹を立て並べた漁法の一つ)を建て漁業を営んでいました。
寛永3年(1626年)から江戸城台所に鯛・白魚を献上したので、その賞として100間四方(約33,124m2)の地を網干し場として下されました。
寛永11年(1634年)、町奉行に漁夫の住居にすることを願い出たところ町割を命ぜられ、網干場に下された地にて「新網町」というようになりました。

新網町は町内の真ん中に海から繋がった掘り割りがあり、南町・北町の小名があります。(東京府誌料・東京地理沿革誌・東京案内)昭和7年12月に芝浜松町4丁目と名前を変えるまで、戸籍上にも「芝新網町北」「芝新網町南」と明記されています。

*芝新網町:JR浜松町駅至近の地、線路に沿った家並。当店までの道すがらです。
*湊町:国道15号線(第一京浜国道)金杉橋より海側。古川に沿った家並。まさしく当店所在地です。
*芝浜松町4丁目:金杉橋より新橋側。現在の浜松町2丁目交差点周辺から金杉橋交差点手前までのことです。


暮らしぶり
江戸時代の話になりますが、日本橋や神田の人が東海道を旅する時にはこの金杉橋を渡っていました。その際、旅人の家族・友人が見送りについてきてもこの金杉橋までくると「あばよ芝よ金杉よ」とうたわれたように、金杉橋の上で別れたと云われています。
金杉橋を品川方面に渡ると「川口町」です。現在の第一京浜に面して「見晴館」「いけす」「芝浜館」「竹芝館」等の江戸前の生きた魚を食べさせる立派な料亭がズラリと並んでいました。

大通り(現在の第一京浜)から一本裏に入った町内の暮らしぶりはいずれも似た様なものましてやお天気まかせの漁師の生活・・・推して知るべしです。
中でも「芝新網町」に至っては東京の中でも5本の指に入る貧乏人の町とい云われていたといいます。
貧乏人が肩寄せ合って近所中が助け合いながら仲良く生活していた昔気質の町です。お金に縁の薄い人達の生活であり「宵越しの金は持たない」と意気がっている人達ばかりだったのでしょう。

勿論生活していたのは漁師だけではありません。芸人も多数住んでいた。「桃雲閣呑風」「湊家小亀」「浪速亭清吉」「荒川清丸」「万りゆう」「つま吉」など漫才では相当の売れっ子もいました。
職人も住んでいました。芝神明のだらだら祭りの為に町人がお金を出し合い、籠職人に町内の神輿を作らせたりもしました。神輿1基の作成費用が5百円から千円の時代に4千円を出し合ったといいます。貧乏人のどこにそんなお金があったか詮索するほうが野暮ですが、ここにも町人の心意気が感じられます。

又、このあたりの子供達は関東大震災後、竹芝小学校が出来た後は先ずは竹芝小学校へ、その後神明小学校が出来、神明小学校へ通うようになりました。
残念ながらどちらの小学校も現在は統廃合の為存在していませんが、その名残の建物がそれぞれの地に建っています。
今となっては浜松町2丁目界隈を「下町」と言ってもなかなか信用してもらえませんが、昔気質の心意気を受け継ぎ、この地に居を構え営んでいる住人もまだまだ多数おります。
「本当の東京人の気質」を当店も後世に受け継いでいきたいと考えております。



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